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キューバ 1986年

日用品もそろい、モントリオールでの唯一の知り合いである大学時代のクラブの後輩夫婦は日本へ里帰り中。モントリオールの街なかはクリスマスの前で華やいでいますが、ひととおり見終わると食料品の買い出し以外は外出するのが億劫になり部屋でゴロゴロ。クリスマスと年末をどうやって一人で過ごすかを考えながら新聞を見ていると、旅行の広告が目に入りました。そうだ、ここにいる間でしかなかなか行けないところに行ってみようと思い、旅行代理店を訪ねました。さすがにクリスマスの期間はほとんど売り切れか、残っていても高くて手が出ないものばかり。そんな中、キューバが一人参加でリーズナブルな値段で空きがあったので即決。行き先はバラデロVaraderoというビーチリゾート。キューバに関しての予備知識などほとんど無いままに、ビザを取得して当日空港へ。今は市内に近いドーバルDorvalにある空港からどこでも行けますが、当時ドーバルは国内線とアメリカ線のみで、国際線はすべてモントリオールの北にある交通の不便なミラベルMirabel空港からの発着でした。日本でいうと羽田と成田の様なものです。その後ミラベルは貨物とチャーター専用になりました。

バラデロ

観光ツアーではなく、フライトとホテルのパッケージだったので特に説明も無く時間までゲート近くで待機。周りを見てみると東洋系は私一人でした。搭乗時刻になり飛行機へ。ゲートからボーディングブリッジを進んだ先はバス。このバスが面白く、乗客が乗り終わるとボーディングブリッジの高さにあった客席部分が下に降り走行。飛行機に着くと再び飛行機の入り口の高さまで上がり機内へ。このようなバスで移動は初めてでそれ以来お目にかかったことはありません。バラデロの空港は全く記憶が無いのですが、ホテルに向かう道すがらとにかく1950年代のアメリカ車が多く、これを日本に持っていったらいい値段で売れるだろうなと思ったのは覚えています。

ホテルはレストランなどの施設がある建物と宿泊する建物が分かれています。夕食に行くとき部屋のある建物から外に出ると、街灯が少なくてとても暗く、銃を持った兵士がそこここにいます。はじめは少し怖かったのですが、考えてみるとその分安全なのだと考えるようになりました。

社会主義国のキューバはこのように経済的な貧しさはありましたが人々はとても陽気でした。夜に古いアメ車のタクシーで街なかを走っていると、地元の人達が踊っているのが外からでも見える店を何軒か目にしました。ホテルの近くのバーで飲んでいると、気軽に声をかけてきて拙い英語でなんとかコミュニケーションをとろうとします。そんな中で知り合った一人は同じ社会主義国のチェコスロバキア(その後まもなくチェコとスロバキアに国が分かれますが)の首都プラハに行きたいと絵葉書を見せてくれました。彼が言うにはとにかくきれいなところで、キューバの人たちのあこがれの地とのことでした。

私のような旅行者が使用するお金と地元の方が使用するお金は同じペソでも違います。また当時アメリカとは国交が無かったのですが、米ドルも使えたのは不思議に感じられました。ある日その彼が私にお金を渡して、旅行者用の店でしか手に入らないラム酒を買って来てほしいと頼んできました。その店で預かったお金で支払おうとすると、旅行者用のお金しか受け取らないとのことでした。仕方なく手持ちの旅行者用のペソで支払い、購入したラム酒を渡しました。預かったお金も私は使えないことがわかったので返そうとしたのですが受け取りません。そこで、そのバーでの私の分の支払いを彼がそのお金で支払うことで話がまとまりました。

ホテルの食事も飽きてきたので、知り合いになったカナダ人たちとステーキハウスに行くことになりました。古いアメ車のタクシーに分乗してレストランに到着すると、そこは素敵な建物でこれは期待できるとお互いにうなずき合いました。前菜とステーキを注文してビールやワインを飲みながら待ちます。ここキューバでは愛想は良いのですがサービスは遅く、ステーキが出されたときには飢餓状態。勢いよくナイフを入れ一口食べてみると、これが今までに食べたステーキの中で最も硬く噛んでも噛んでもなかなか喉を通りません。それでも3切れくらいは頑張りましたが、そこでギブアップ。周りを見ると皆同じようにナイフとフォークを置いています。選んだ店が悪かったのか、みなそうなのかわかりませんが、この日のディナーは残念な結果に終わりました。

ステーキには恵まれませんでしたが、ビーチは美しく、ゆったりとした1週間を過ごすことが出来ました。またもし行くことがあれば、首都のハバナにも訪れたいものです。